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山本寛斎さんが教えてくれたこと

ファッションデザイナーの山本寛斎さんは、7月21日に急性骨髄性白血病で亡くなりました。

寛斎さんは「元氣主義」を自ら提唱したので、間違いなく自分の病気を克服できると信じていました。

フォトグラファーの橋田さんから、90年代に寛斎さんを撮影していた時の写真を送ってくれました。当時、アシスタントだった両角さんがこっそり写真を撮っていました。



寛斎さんとの思い出がたくさんあり過ぎて、一度書いたブログを削除しましたが、大切なことを忘れないように自分で書き留めておこうと思います。



ある時、寛斎さんから「これからお昼を一緒に食べよう」と内線電話がかかってきて、原宿明治通り沿いにあった、今はなきパレフランスでランチを食べに行った。その時、バブルの真っ只中、寛斎さんは自らデザインした鮮やかなグリーン地に、背中にゴールドでキリストの刺繍の入ったシルクのシャツを着ていた。明治通り沿い原宿山下公園口の信号を待っていたところ、白のロールスロイスのオープンカーのドライバーに「ハ~イッ!」と大声で手を上げる。向こうも同じように運転しながら「ハ~イッ!」と返事が来る。


僕は、寛斎さんに「お知り合いですか?」と聞くと「いや、なんか派手な人がいたんで思わず声をかけてみた」と言った。



また、朝、定刻通り出社して自分の席に着くと、9時半ぴったりに寛斎さんから内線電話がかかってくる。急いで社長室へ行くと、雑誌の切り抜きやら、アートブックを見せられる。話が終わり、隣部屋の秘書課、広報課の部屋で、みんなとちょっと雑談していたら、寛斎さんが部屋に入ってきて、「君と話しているといろいろアイデアが浮かぶんだ。毎朝、会社へ来る前に、今日は君と何を話そうかいつもワクワクしている。君は天才だ!」(僕が天才なはずはない!)と言って、外出して行った。何のために呼ばれたのかそれで納得。ふっと、周りを見ると秘書課や広報課の女性陣たちがニヤニヤ笑っている。「もしかして、寛斎さんとできているんじゃないの~?」と僕をからかう。「冗談じゃない!」と言い捨てて、自分の席へ戻る。



その頃、バブルが弾け、寛斎さんはファッションショーとは別に毎年スーパーイベントというショーに精魂を傾けていた。この時は、ロシアの赤の広場で世界初ファッションとスペクタクルのショーを企画していた。寛斎さんから、いつもの内線電話がかかってきて、「今から、役員会議があるのだけど、君も一緒に参加してくれないかな?」と言われ、会議には寛斎さんの隣に座らされ、外部役員もいる重役会議に参加させられた。

寛斎さん以外は、みんなロシアでのショーを中止にするべきだという意見だった。下っ端の僕には、経営陣でそんな話になっているとは思いもよらなかった。パリコレも中止になったらしい。


寛斎さんは、会議で僕にロシアでのショーのコンセプトを熱く語らせた。

そのうち、寛斎さんは予定があるので退席して、僕は一人取り残された。今まで面識のない外部役員は、僕が重要人物だとでも思ったのか、「いやー、参りましたなあ、このショーをやると4億円かかるんですわー。F1並ですよ」とぼやいた。その後、みんな「困った、困った」と言い会議が終了。こんな話、社員に知られては士気が下がるから極秘のはずなのに。グラフィックデザインのことだけを考えていればいいと思っていた僕は、えらいことを聞いてしまったと思った。


次の朝、また寛斎さんから内線電話がかかってきて、呼び出される。ロシアのショーは、中止になったらしい。覚悟はできていたようなので、寛斎さんは驚きもせず、「僕は諦めない。今、いろいろな人に手紙を書いて資金を集めているんだ」と笑顔で元気よく言った。


重役達が、会社ではこの企画の予算は出さないと言っているのに、寛斎さんからはポスターや新聞広告やパンフレットなど次から次へとグラフィックアイテムを作って欲しいと、僕に依頼が来る。内心、全部無駄になるのではないかと心配になった。


1ヶ月くらいが経ったある日の朝、寛斎さんから呼び出される。「4億円集めたよ!会社がお金を出してくれないから、自分で集めたんだ」と勝ち誇ったように笑顔で言った顔が今でも忘れられない。当時、元総理大臣の橋本龍太郎の実弟の四国の橋本知事、NECの社長、ANAの社長、IBMの社長がスポンサーになってくれたらしい。


「どうやって集めたんですか?」と僕は聞いた。寛斎さんは、大きな画用紙に色とりどりのマーカーを使って直筆でメッセージを書き、雑誌の切り抜きなどいろいろな素材をコラージュして独自の手紙を送ったらしい。その一部を見せてくれ、その一枚を僕にくれた。(僕は、挫けそうになるといつもこれを引き出しから取り出して、その時のことを思いだす。このお守りは、夢を諦めるなといつも僕を激励する)



この大企業の社長達と会った日のことを寛斎さんは話してくれた。「僕は、人生で大きな失敗をした。約束通り、待ち合わせの料亭に45分位前に着き、少し早いので運転手にその辺をぐるっと回って、時間を潰してもらったんだ」「30分前になったので、料亭に入っていくと、座敷に通され襖を開けると、NECの社長、ANAの社長、IBMの社長が三つ指をついて、畳に額をつけて頭を下げていたのだ!」その姿を身振り手振り真似て、熱く語った。つまり、寛斎さんが言いたいのは、こちらから資金援助をお願いして、自分が頭を下げる立場であるのに、さらに先方は1時間も前に到着して座敷で待っていてくれたということだ。


「これは、大失敗だったよ。今度からは、1時間前に約束の場所へ行くことにする」と悔しそうに語った。


寛斎さんから教わったことは、クリエイティブなことよりも人としての姿勢だった。人としての礼儀、諦めずにチャレンジすること。そして、地位や肩書きで人を判断するのではなく、その人の才能で判断するということ。当時、僕みたいな名も無い若造にでも目をかけてくれたことは、感謝の念に耐えない。ここに語り切れないほどのエピソードがもっともっとあるけれど、寛斎さん、どうか天国でゆっくりとお休みください。





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In search of a beautiful, glowing, ring.

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